自己紹介

僕は北海道生まれです

幼いころからモノを作るのが好きだったので
幼稚園時代
将来の夢は「大工さん」

親はおもちゃを買って与える
なんてことはしませんでしたので
自分で遊び道具を作っていました

そのかわり
毎週のように
キャンプに連れて行ってくれました
自然の中で遊ぶのは
今でも大好きです

小学校5年生のとき
NHKでロボットコンテストを見ました

学生たちが自分たちで
一からモノを作り上げて
活躍する姿に感動し
高専に進学したい
そう思いはじめました

中学校になり
その気持ちはますます大きくなりました

人から喜んでもらえることが
好きだったので
「人の役に立つモノづくり」
を目指そうと思うようになりました

このころの将来の夢は
「工場長」

自分の工場で
自分の好きなモノをつくりたい
そう思っていました

高専の面接試験でも
それを伝えたのを
覚えています

そして高専時代

非常に楽しく
大切な経験も
たくさんしましたが

正直言って
勉強はテスト前以外
ほとんどしませんでした

バイトと部活に明け暮れ
毎晩のように遊びに出かけ
成績はどんどん
下がっていきました

姉は
非常に勉強熱心だったので

親にはよく

お前なんか
大学に行けるわけないだろ

と言われていたのを
覚えています

反抗期も絶頂期で
親と会話することも
ほとんどありませんでした

そして5年生になり
進路を決定する時に
選んだ大学は
九州工業大学

なぜ北海道から九州に?!

とよく聞かれましたが
これには理由がありまして

今はわかりませんが
当時の九工大は
高専からの編入学の場合は
筆記試験がなかったのです

僕のヒドイ成績表は
提出されてしまいますが

審査は面接のみ

面接だけは自信があったので
なんとか合格し
九工大へ通うことになりました

入学してから
面白い授業にあたりました

人間の機能を
数式でアルゴリズム化し
そのハードウェアまで作成する
という分野です

そこで人間の凄さを
実感しました

そして


この分野で
人間みたいな
ロボットが作れれば


それこそ
「人のためになるモノ」
だろう
そう思えました

さらに
研究室では
今でも恩師と呼べる
教授に出会いました

失礼なことに
当時の僕は
その教授の名前も知りませんでしたが
世界で初めて
あるICチップを開発した方で
そのバイタリティといいますか
人間力は
僕の目標の一つになりました

ちなみに不思議な関係があるもので
当時の僕の研究テーマは
ロボットの自立学習に
関する研究です

そのまま大学院に進学
ここでも試験はありませんでした

つまり筆記試験ゼロで
大学院生になったのです

そしてそのツケが
ここでやってきました

大学院入学時
英語の試験がありました

僕は昔から英語が苦手で…
ずっと避けてきたのです

試験内容は
50問の4択問題

で,僕の点数は…

2点

確率的にも
おかしい点数です

間違いなく
最下位だったと思います

さらに追い打ちをかけた
出来事が。

大学院1年のとき
研究結果を
国際学会で
発表することになりました


この学会は
当時流行した
SARSの影響で
最終的には
中止になりましたが


そこで僕がとった方法は
北海道から
中学校時代の
英語の教科書を送ってもらい
400字
(高校入試長文くらいの長さ)の
原稿を
3ヶ月かかって
書きました

そして
教授に提出しました

わずか3秒後…

お前,
be動詞くらい
shっかり使ってこい

と,言われてしまいました

当時23歳
be動詞がわからない
大学院生でした

こんな状況じゃ
就職しても
活躍なんてできやしない…

そう悩む日々でした

そんな時に
当時の同級生で
世界一周を終えてきた仲間が
ペラペラ英語を話す様子を見て

僕も海外に行けば
話せるようになるだろうと
安易に思いました

そこで
車を手放し
ほぼ自炊で過ごし
バイトをしてお金をためて

1年後
カナダへの語学留学を
決意しました

教授には

そんなんで海外に行っても
遊ぶだけ
英語なんて身につかん!


猛反対されましたが

カナダ留学の半年後に
ニュージーランドの研究室に
半年在籍することを条件に
許可をもらいました

つまり
カナダで必死にならなければ
半年後はとんでもないことに
なるわけですね

そんなこんなで
カナダへ出発

行けば何とかなるだろう
そう思っていましたが
何ともならない現状が
そこにはありました

空港では
何も答えられず
不審がられ

ホテルでは
何も答えられず
変な顔をされ

一番衝撃的だったのは
語学学校

最初に入ったクラスが
一番下のクラスでしたが

みんな英語を
よくしゃべるんですね

僕は先生の言っていることが
全くわかりませんでした

ただただ黙って
日々を過ごしました

ホームステイ先でも
ひたすら部屋に閉じこもり

沈黙。


ホームステイと言っても
ただ部屋を借りるだけで
基本的に家族と接触のない
形式でした


完全に引きこもり状態でした

当時僕は
携帯電話もパソコンも
持っていました

でも
人と関われない限り
最新技術は
全く役にたたず

かといって
話す勇気もわかない

「ハロー」
その一言を
発するのが怖い

そのあと
どう話をしていいかが
わからないから…

自分で選んできたのに
失敗か…

涙をこぼす毎日でした

こんな自分をみて
ホームステイのお母さんが
心配して
食事に誘ってくれました

そして
簡単な英語で
ジェスチャーを交え
ペンで文字を書きながら
僕に伝えてくれました

初めからできる人なんていないよ
でも
失敗を恐れていたら
何も進まないよ

この言葉に
とても勇気が出てきました

そしてもう一人
同じクラスに
韓国人の女の子がいました

彼女も
英語が上手ではなかったのですが


クラスで
ただただ沈黙している僕に
毎日
何かしら話しかけてくれました

僕は
何も返せなかったのですが
それでも毎日
笑顔で話しかけてくれました

何か動かなけば…

そう強く思いました

恐れて動かなければ
死んでしまう

自分で動いて
何かを変えなきゃ…

それからは
本当に勉強したと思います

前日に
あらかじめ話す文を数文考え
何度も暗唱し
覚えてから人に話すことからはじめ
朝8時から
夜12時まで
英語を勉強しました

日本人の友達とも
ずっと英語で話しました

発音も習いたかったので
授業後残って
個別に教えてもらいました

もちろん
英語で説明されても
何もわからないので


舌を動かす様子を
実際に見せてもらい
その通りに発音する練習

他から見れば
にらめっこをしているようにしか
見えません

でも
そのおかげで
1ヶ月くらいすると
クラスのみんなと
話せるようになりました

友達もたくさん
できました

僕はお金がなかったので
よくご飯をご馳走になりました

この時あたりから

あれ?
人に一番役に立てるのは
人か…?

と思いはじめました

その後は
本当に楽しく過ごしました

いろんな国の人と話せ
世界を知るきっかけにも
なりましたし
そとから見た
日本を知ることも
できました

そして半年後
1週間だけで日本に戻り
すぐに
ニュージーランドへ
いきました

最初は大学の教授も
一緒にきまして
ニュージーランドの
研究室の仲間と
話す機会がありました

その時の僕の様子をみて

それくらい話せるようになるなら
海外留学もいいかもな


教授が
考え方を変えて行ってくれたことは
僕の大きな自信になりました

ここまでは
自分は将来博士号をとって
研究者になることを
考えていました

ですが
このニュージーランドの
研究室での出会いが
方向転換の
決定打でした

そこのトップの研究者の方と
よくお話しをしてたのですが

彼がよく言っていたのは

研究は面白い
でも
本当に人を幸せにできるのは
人だから

将来は
牧師さんになりたいんだ

彼は熱心な
クリスチャンでした

僕はクリスチャンでは
ありませんでしたが
彼の考えに
感銘を受けました

世界中を駆け回り
活躍している研究者でも
そう思うのか…

今まで工学一本で
進んできましたが
これをきっかけに

教育業界へ行こう

そう心に決めました

自分で塾を開きたい
そう思い始めたのは
この頃です

自分自身で道を切り開いて
そして
教える生徒にも
自ら道を切り開き
社会貢献してほしい

それこそが
人のために
一番役に立つことだと

ですが
今まで教育の勉強なんて
したこともなかったので

とりあえず
勉強になるところに
就職しようと思いました

僕が帰国するのは5月

日本に戻ってから
就職先を探すのでは遅いので
ニュージーランドから
インターネットで
塾をさがしました

当時
就職サイトから探せた塾
約170社

すべての会社の
理念を読みました

その中から
点数だけでなく

「人間性の向上」

を目標とした塾を
探しました

そして選んだのは
岐阜のとある塾です

短期的な結果だけ
学歴だけ
点数だけ

そんな塾がたくさんあった中
その塾は
本当に生徒の将来を
考えていました

即,応募しました

 日本に帰国し
教授に方向転換を
伝えました

また反対されるかな

そう思いましたが
笑顔でOK

お前,もう
心に決めているんだろ?

教授はすでにお見通しでした

大学院を無事卒業し
岐阜へ渡りました

自分が今まで学んできた分野とは
全くの別世界で
最初は戸惑いました

授業大失敗
生徒が不満げに帰る

生徒と大げんか
ついでに上司とも大げんか

そんな自分でしたが
周りの人々が
本当に協力してくれたおかげで
教室責任者に
なることができました

素敵な生徒たちに
たくさん出会えました

保護者の皆さんにも
温かいご支援を
たくさんいただきました

会社の皆さんも
大好きでした

いや,今も大好きですよ!

最初は5年で辞めて
自分で始めようと思っていましたが
そんな心地よさがあり
もっと長く居座ってしまいました

ここままでもいいかな…
そう思うこともありました

ですが
生徒に
「自分で道を切り開け!」
とか
「挑戦しろ」
とか

いろいろ言っているうちに

一番できていないのは
自分ではないか
と思いました

結局
現状に甘えているのは
自分だと

塾のブランド
信頼をバックに
胡座をかいているだけだと

そんな自分では
生徒に示しが
つかないと

自分は自分で
やるんじゃなかったのか

本当にやりたかったことを
やらずに人生を終えるのは
ダメだと

自分の担当校舎が
移転することもあり
キリもよかったので
今年(2013)の春に退社しました

自分の開校場所として
選んだのは
ここ,福岡

引っ越してから半年
こちらでも
多くの方の支援を
いただきました

常に前向きに応援してくれる家族
地元の友人

右も左もわからない
そんな状態から
親切に対応し
常に気にかけていただいている
不動産屋さん
オーナーさん

久々にもかかわらず
協力してくれる
大学時代の知人・友人

離れた場所でも
支援の連絡や手紙をくれる
前の会社の皆さん
生徒たち

今まで関わっていただいた
方々のためにも
精一杯頑張ります!

非常に
長くなってしまいました

しかもまとまりのない…

もし
ここまで読んでいただけましたら
感謝感謝です

有難うございました

タイトルとURLをコピーしました